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jFD開発したりしなかったり日誌

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2006-09-30 [長年日記]

_ 碁の偉い人

昼前、来客が。

親父の知人で、有名な碁の先生の中山典之さんという方だった。

親父は「3時頃来るんじゃないか」と言っていたが、どうもあてずっぽうの

推測だったらしく、昼ご飯も用意してなくてお袋が逆上していた。

お袋はこれからまだ整体の客が来ることになっているし、親父は仕事中で

帰ってきてないしで、僕が対応することになってしまった。

お茶を出してお話を聞いた。

僕が小さかった頃、たまに中山先生が来ていたのを覚えているが、

きちんと話をしたのは初めてだと思う。

今は千葉の鴨川に住んでいるそうで、春にツーリングで行ったことを話したら

喜んでくれた。

魚がおいしいそうで、昔は魚とは生臭い物だと思ってたが、千葉に引っ越してから

考えが変わったそうだ。

羨ましいなあ。

僕もツーリングで食べた魚は本当においしかった。

国内外の囲碁事情なんかも聞いた。

日本にプロは400人くらいいるが、トーナメントの賞金だけで食えているのは

10人くらいだけとか。

日本では18までに初段になれなかったら諦めるよう言われるが、職業選択の自由があり、

囲碁に関わって生きることはできるし、幾ら囲碁ばっかりやってたといっても

多少は他のこともしているので、なんとか自分の道を見つける人が多いそうだ。

しかし、中国では才能のあるのが一カ所に集められ、完全に囲碁のみの

英才教育を施されるが、そこで芽が出ないと追い出され、何をしていいかわからなくなり

自殺してしまう人がよくいるらしい。

それで思い出したが、一時期ヒカルの碁がブームで子供に囲碁がはやったが、

その影響を聞いたらけっこうあったらしい。

子供の囲碁人口が増えたので、将来はその中から名人が出るかもしれないそうだ。

先生は本を書いているそうで、見せてもらった。

昭和囲碁風雲録という本は、戦後の囲碁界の歴史を書いた本だそうだが、

実はその中のある一章を書きたいがために書いた本なんだそうだ。

当時、名人戦を持っていた読売新聞と囲碁界の争いの歴史なんだそうだ。

読ませてもらったが、なかなか面白い。

ようするに、名人戦が始まった時の契約で、賞金は物価の上昇に合わせて増やす、

という契約だったのに読売新聞がそれを守らず、ここで囲碁界と読売新聞の

争いがあったという話だった。

これを書くのはタブーだったんだけど、年を取ったしそれなりの地位も出来たので

怖い物がなくなったから書いたとか。

その他、囲碁の基本部分を深く掘り下げた本や、オリジナルのいろは歌

(七五調で、同じ発音が二度出ない)がたくさん書かれた本を見せてくれた。

オリジナルのいろは歌というのは本当に大変な物らしく、大学の文学科の先生が

何人も寄ってたかって挑戦したが、誰にも出来なかったとか。

ボキャブラリは変わらないが、集中力が違うんだそうだ。

そこまで話したところで親父帰宅。

続いて他のお客さん方も集まり始めた。

2階の広い部屋を支度して、そっちで囲碁を打ってもらった。

僕は囲碁のルールすらよくわかってないので、下でネット見たりコード書いたり

本屋に行ったりゲーセン行ったり。

帰ったら随分人数が増えていた。

子供も何人かいた。

後で聞いたが、その中の一人の女の子が、先生相手に序盤はけっこう

いい攻めをしてたが、先生が何気なく置いた石の一つがあれよあれよという間に

勢力を伸ばしてだんだん泣きそうになって、最後はボロ負けして

お母さんの膝にしがみついてシクシク泣いてたそうだ。

学校とかじゃ負け知らずだったんだろうなあ。

自分よりレベルの高い人に触れられるって幸せなことだから、良い経験じゃないかな。

僕は囲碁は全然わからないが、なかなか面白かった。